ひさおの独り言2016

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ブレークスルー・オブ・マイ消化器官

昨日から今日にかけて、ちょっとしたブレークスルーがあった。

昨晩、妻に「冷奴を食べたい、薬味たっぷりで。」と告げジョギングに出かけた。帰ってくると妻は風呂に入っており、薬味セットが冷蔵庫に。近くに「京とうふ(絹ごし)」も。冷蔵庫の一段下の棚には、もっとうまそうな「湯葉寄とうふ」があったが、賞味期限を見ると9月12日、すでに切れている(うちではこういうことが時々ある)。

とうことで「京とうふ」を食す。「さすが、日本の豆腐は柔らかい。箸で器に移そうとしたらボロボロと崩れるわい。」と思いながら、器に移し、薬味をたっぷり乗せ、醤油をかけて食べた。半丁ほどである程度お腹が膨れたが、残してもいけないと思いさらにその半分ほど食べた。

妻が風呂から出てきて、「日本の豆腐は柔らかいね」と言いながら、京とうふの話をしたら、「そんなもん買ってない」と言う。

それでパッケージに目をやると・・・「賞味期限 16.07.22」。目を疑った。カナダ渡航前に買って、捨てるのを忘れていたやつだと、妻。

妻がネットで、豆腐の賞味期限が切れてもどれくらいまで食べられるか調べ始める。いや、そんな成功事例調べてもしょうがないだろう。だが、とりあえず「豆腐というやつは、糸引いたりパッケージが膨らんだり、酸っぱい味がしなければ1〜2ヶ月はOKだ」などという記載はあったらしい。

というわけなのだが、昨晩はそんなこんなで少し不安を抱えながら寝たが、特に食中毒を起こすこともなく、無事生きたまま朝を迎えた。


そして今晩、妻が昨晩買ってきていた、フレッシュな「湯葉寄とうふ」(冷蔵庫の最上段においてあった)を、薬味たっぷりで食させていただいた。昨日の豆腐との違いは今ひとつわからなかったが、塩だし生姜のうまさも相まって、大変美味しく頂いた。

・・・で、食べ終わってみて、もう少し豆腐が食べたくなった。

そう、うちにはまだ、賞味期限が9月12日の「湯葉寄せとうふ」が残っている!!

賞味期限が2ヶ月前の豆腐を食っても平気だったんだから、半月前の賞味期限なんて、切れてないようなもんだ。パッケージが膨らんでないか、糸引いてないか、ちょっと食って酸っぱい味がしないか、を確認して、全部たらふく美味しくいただきました。

かようにして、私の消化器官のブレークスルーが起きた1日だった。





ん?・・・もしかして、下痢ってある意味「ブレークスルー」なのかも(今回のケースは違いますが)。


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by hisaom7 | 2016-09-30 23:04 | 日記 | Comments(0)

アクティブラーニングやりたいなら小学校に行け

大学のティーチングアワードを頂いた。先進教育賞アクティブラーニング分野と優秀教育賞大規模授業部門の2部門同時受賞らしい。受賞コメント等でも書いたが、とにかく工夫に工夫を重ねた講義だったので、受賞は純粋に嬉しい。

私など学生時代は教養講義にまともに出たことがなく、出ても大変につまらなかったという記憶しかない。したがって、自分が講義をする側になると、これが恐怖となって帰ってくる。できるだけ学生を飽きさせないつまらないと思わせない講義をしたい。講義に来たいと思わせる講義をしたい、そういう一心でやった講義だとも言える。

同僚のS先生と半々でやったのだが、S先生とはアプローチは違うものの「講義というもの」に対する考え方が近く、うまく相乗効果を産んだのだろう。

昨年の夏は、台風のせいで休講になった補講を8月のお盆直前にやることになり、誰も来たくないだろうから、2人のプレゼンバトルをやった。なんだかんだで40名くらいの生徒が来たのではないか、わざわざ実家から来た生徒もいた。もう一度やれと言われても不可能な、「伝説の講義」になるにふさわしい面白さだったと、自画自賛している。


さて、賞をもらったので、「アクティブラーニング」について思っていたことを偉そうに書いてみる。

いや、話はかんたん。「アクティブラーニングなんて、小学校の先生がみんなやってることでしょ?」ということだ。私がアクティブラーニング賞を頂いた講義を作る上で一番参考になったのは、小学生の子供の授業参観だった。

先生は、一回の授業の中で、明確に到達したいゴールを設定し、そこに向かって一人一人に考えさえ、グループ活動をやらせ、発言させ、答えを見つけさせる。みんなが参加している。これ、アクティブラーニングですよね?

結局、アクティブラーニングを忘れさせているのは、受験(あるいは知識の習得・詰め込み)だけを志向した座学なのであり、実は小学校の頃にみんなやった経験もあるし、アクティブラーニングをやりたい講師としては、生徒たちを「その頃の積極的な自分」に戻らせてあげればいいだけなのだ。

「その頃の積極的な自分」を引き出すのは、たしかに簡単なことじゃない。

生徒との信頼関係をきちんと作り、その生徒が何を持っているのかをしっかり観察して、それを引き出してやらなければならない。そして、それが出しやすい環境を作るために、まずは講師自身がそうとう羽目を外さなければならない。

それについても、小学校の先生から学ぶことは多い。小学校の(いい)先生は、生徒の人気者で、強い信頼を得ている。

アクティブラーニングっぽいことをやりながら、「小学校の授業が参考なんて、授業が幼稚な内容になってるんじゃないか」と自問自答することもあった。ただ、受講生は大学生、もういろいろな知識や経験を持っている。それを引き出し、それに合わせてレベルを上げていけば、決して授業のレベルを下げることなく、到達目標にたどり着くことが出来ると思う。

最後に、あたりまえのことなのだが、それぞれの講義にはそれぞれにゴールがあり、それに最も効率良くたどり着くためのアプローチは異なる。大学の講義をすべて私達がやったような方法で行うことは不可能であり、やはり知識を詰め込む講義も必要なのは間違いない。課せられた、教科書に書かれた内容をできるだけしっかりと身につける事を目的とした講義も必要だ。そういう講義には、そういう講義のやり方があるだろう。多分、私たちがこの講義でやったことはそれではない。


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by hisaom7 | 2016-09-28 12:55 | 雑記 | Comments(0)

文章パーツを作る

今日は科研費の申請書、1つ埋め尽くすぞと気合を入れて職場に来たが、まず降って来ていた仕事を終わらせ、夕方になって書き始めたものの、やはりまだ成熟の域に達しておらず、書けず。

そこでとにかく散文を書き始める。「これは書いておきたい」という文章パーツを作る。言い回しをこねくり回す。自分の中にあるものを吐き出し、その上で足らないものを集め、また頭のなかで統合して出てくるものを待つ。苦しめ、俺!



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by hisaom7 | 2016-09-26 20:58 | 雑記 | Comments(0)

サイエンスはエンターテイメントである

サイエンスはエンターテイメントである、と結構前から思っていた。でも、自分の立場でそれを声高に言うのはどうかと思うところもある。

サイエンス=エンターテイメントの考え方は、驚いたことに分野の御大と言われるY先生が、ご自身の講演の中で口にされた。ただ、Y先生はその時、「今までの自分のサイエンスはエンターテイメントだったから、これからは実用的に役に立つことをしたい」、という文脈でおっしゃられた。

Y先生は、ご自身のこれまでの壮大な業績をまとめてエンターテイメントと総括したのだ。その業績をだされていた最中に、それを意識していたのかどうかはわからない。ただ、基礎研究を総括する一つの言葉として、やはり「エンターテイメント」があてはまるんだと、その時、自説(?)に対する自信を深めたのは確かだ。

以前のメンターが賞を受賞したときに、「世のため人のための研究をやっているか」を自分に問いかけろとおっしゃった。その時は、「人類の役に立つ応用研究をしろ」というメッセージなのかと考え、自分の研究に自信がなくなった。

ただ最近、単純にそういうメッセージではないんじゃないかと思うようになった。「自分だけが知りたいを追求する、誰も共感できない研究をするな」ということなのではないかと。「自分が知りたい」を追求する研究でも、重要性や面白さを共感できる他人がいるのであれば、それは世のため人のための研究と言っていい。プロの研究は、実はそうでなければ成り立たない。共感されなければ、査読付きの論文は出版できないし、研究費もとれない。

つまり、「自分が知りたいを追求するのはOK、でも他人の共感を得るための努力もせよ」、と(拡大?)解釈すれば良いんじゃないかと。

少数の研究者仲間に共有されている「共感」を一言で表せば、エンターテイメントだ。そして、よりたくさんの人に共感される(エンターテインできる)サイエンスが、より良いサイエンスなんだ。

・・・などということを少し思ってみた。批判はあるかもしれないが、私のサイエンスにはこのスタイルがあるようにしたい。


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by hisaom7 | 2016-09-25 14:24 | 日記 | Comments(0)

ひどい論文をレビューする、科研費テーマでひとりブレスト

夏頃にレビューした論文のリバイスに対するレビューの依頼が2件ほど。正直、「こんなわけわからん論文をレビューされられるのは時間の無駄」と思うものが最近たくさん送られてくる。投稿論文の体をなしていないものが多い。

そんな論文を世界に向けて発表しようという勇気もすごいが、それをレビューさせられる方はたまったものじゃない。論文の体をなしていないから、リジェクトを前提としておかしなところを指摘しまくるのだが、それが結局リバイスになって返ってくるから驚きだ。でも、もともと論文の体をなしていない(そういうものを書けない)オーサーが書いているわけで、リバイスしたってたいして良くなるわけではない。わけわからん論文であることには変わりがない。

「なんで私が見ず知らずの著者に、(タダで)論文の書き方指導をしなければならないんだ、これもコミュニティーへの貢献なのか?」と非常に疑問に思う。だめな書き方がなされた論文を多数読み、それを修正してあげようとする努力をすることで、自分が論文を書くスキルがあがる、あるいは自分達の学生に論文の書き方を指導する時のスキルがあがる、と思えばよいのだろうか。あるいは、そんなことも考えず淡々とレビューをこなすべきなのだろうか。

そして、特に出版料をとるジャーナルの場合、論文をリジェクトすることのコストのほうが大きいので、結局そういう論文でも最終的にはアクセプトになって発表されたりするわけだ。実際問題として、論文の数は増えるが質はどんどん下がっているような気がする。

そういうのを見ていると、自分たちはファンシーなジャーナルに論文が載せられていなくても、まだまともな「論文」は書いていると思って少し安心したりもする。・・・そういうレベルで話をしてもだめなんだろうけど。


さて科研費の申請書書きのシーズンだ。今年で科研費は切れるので、来年の4月に新規が採択されなければ「死ぬ」状態である(・・・実際には死なない程度の研究費は入る予定だけど)。

というわけで今年も気合を入れて申請書を書く。今年は、出そうと思えば5つ申請書が出せる。と言うか出せそうな気がしている。それぞれに幹となるアイデアはある。だけどもちろんそれを研究計画としてしっかり色づけしていかなければならない。

昨日から本格的に考え始めたのだが、パソコンをじーっと眺めていてもアイデアは浮かばない。いきなり文章を書き始めても、散文にしかならない。「えーっとはじめは何するんだっけ?」としばし考え、「アイデア出しだ」と思い出す。紙とペンを取り出し、1人でブレインストーミングを開始する。A4の紙が埋め尽くされたのが2課題、まだ隙間があるのが3課題。

科研費申請のために、アイデアを絞り出し、ゴールまで見据えた研究計画をたて、それを文章にしておくというのは、しんどい作業ではあるのだが、研究者としてとても大切な作業だと思っている。

そういう作業なしに思いつきで研究をすすめると、ある程度進んだところで思わぬ落とし穴に落ちる事がよくある。そうならないために、研究を始める前に、あるいは研究の途中ででも、じっくりと研究テーマを色んな角度から練る事は大切だ。また、そのテーマの大事さ・面白さを、審査員という他人に理解できる形の文章にすることも重要な作業である。研究成果というのは、それが研究コミュニティーに認められて初めて意味を持つものだからだ。

・・・というわけで一年に一回くらいこういう作業をすることは悪くない。・・・しんどいけれども。


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by hisaom7 | 2016-09-24 13:01 | 日記 | Comments(0)

ようやく落ち着くのかしら

トロントから帰国し、すぐに10日ほどの連続出張、ようやく今日で一段落がついた。まだ何か現実に戻れていない気がするし、何か大事なものを置き忘れてきてしまった気もする。ふわふわした感覚がある。

これから科研費申請書の執筆と、頼まれ仕事を幾つかこなす時期に入る。着実に仕事を終えていくしかあるまい。



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by hisaom7 | 2016-09-20 19:09 | 日記 | Comments(0)